豊臣大坂城の痕跡

豊臣大坂城

現在の大坂城(徳川大坂城)は国の特別史跡(下図の赤線の内側)となっており、発掘調査等は厳しく制限されています。
しかしながら、近年における本丸での各種調査や、特別史跡の範囲外における発掘調査により、
その姿が徐々に明らかになりつつあります。
ここでは、現在明らかになっている豊臣大坂城の痕跡についてお伝えします。

①本丸の石垣

昭和34年(1959年)と昭和59年(1984年)の発掘調査により、豊臣大坂城本丸の石垣が発見されました。
豊臣大坂城本丸図を基に作成された「豊臣大坂城本丸と徳川大坂城本丸の重ね合わせ図」を基に検証された結果、豊臣大坂城の中ノ段の石垣(下図左側)と、詰ノ段の石垣(下図右側)であることが判明しました。
なお、詰ノ段の石垣については、2025年4月にオープンした「豊臣石垣館」で見ることができます。

大阪城天守閣豊臣石垣コラム」より引用(豊臣石垣コラム | 大阪城天守閣)

②京橋口馬出の石垣

追手門学院敷地内の発掘調査において、総延長約150mの石垣が発見されました。この石垣は自然石の野面積みで、下部の3段分(高さ1.3m程度)が見つかっています。
この石垣は大坂冬の陣後の講和により徳川幕府に破壊されたと考えらますが、もともとは3m程度の高さがあったと考えられています。

中村博司「天下統一の城大坂城」より引用

③大手口馬出の堀

2003年の大阪府警察本部庁舎建て替えにともなう事前調査において堀跡が発掘されました。
この堀は幅が約22.5m、深さ5.6mで石垣は存在せず、素掘りの土手の形状でした。堀底は北条氏の城郭(小田原城や山中城)で見られる障子堀の構造でした。この堀は大坂冬の陣後の講和により徳川幕府により埋め戻されたと考えられます。

中村博司「天下統一の城大坂城」より引用

④玉造口馬出の堀と石垣

昭和54年(1979年)の野外音楽堂の建設にともなう発掘調査において、高さ約2mの石垣と堀跡が約30mにわたり発見されました。また、昭和58年(1983年)の発掘において、高さ1.8mの石垣が発見されています。この堀も大坂冬の陣後の講和により徳川幕府により埋め戻されたと考えられます。

大阪城天守閣豊臣石垣コラム」より引用(豊臣石垣コラム | 大阪城天守閣)

大阪城天守閣豊臣石垣コラム」より引用(豊臣石垣コラム | 大阪城天守閣)

上記の豊臣大坂城の痕跡について、前回ご紹介した「大坂城慶長年間之図」との関係を表した図は以下となります。

大坂城慶長年間之図 (島内洋二「秀吉の大坂城ー知られざる堀と防御施設」より加筆)


ここまで、豊臣大坂城の縄張りについて現在明らかになっていることをご紹介してきました。
本丸については精緻な縄張り図である「豊臣時代大坂城本丸図」との重ね合わせ図を基にした調査が実施されており、豊臣大坂城の石垣や堀の位置がかなり正確に明らかになってきています。
一方、二ノ丸の各虎口の外にある馬出曲輪の遺構についても近年の発掘調査で明らかになりつつあります。

しかしながら、二ノ丸についてはほぼ調査がされておらず、また正確な絵図や古記録もないことから未知の状態と言わざるを得ない状況です
個人的には「豊臣大坂城の二ノ丸」に強い関心を持っており、その解明に向けて取り組みたいと考えています。この件については、追々ご紹介していきたいと思います。

次回からは豊臣大坂城の構造について、各曲輪(本丸、二ノ丸、三ノ丸)毎に詳細を見ていきたいと思います。

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