甲府城は、甲斐国武田氏の滅亡後に甲斐国を支配した徳川家康が平岩親吉に命じて築城を開始し、
徳川家康の関東移封後に、豊臣秀吉の命により羽柴秀勝と加藤光泰、浅野長政・幸長によって1590年代に完成されたと言われています。
関ヶ原の戦い以降は徳川の城となり、徳川親藩や譜代大名が城主となっていますが、享保9年(1724年)に幕府直轄地となり甲府勤番制度のもとで管理されました。
ここでは、豊臣大坂城との共通点と、豊臣時代の甲府城の役割について見ていきたいと思います。
豊臣大坂城との共通点
共通点① 三段構成の曲輪と天守の位置
甲府城の主要部と豊臣大坂城本丸はどちらも小高い丘に築かれており、三段構成の縄張りとなっています。また、本丸周辺の曲輪が帯曲輪で連結されており、本丸を通ることなく兵が移動できる造りも共通です。

天守の位置については、甲府城が東に寄っていますが概ね北東にあり、豊臣大坂城を含む豊臣系城郭における共通のお作法に則っています。

甲府城の石垣と瓦の考古学(山梨県立考古学博物館2021)より引用加筆
共通点② 金箔瓦の使用
甲府城からは金箔の鯱瓦や豊臣家の家紋の桐文瓦が見つかっています。
金箔の鯱瓦は本丸周辺の天守曲輪や人質曲輪で出土しており、天守に使用されていたと思われます。

甲府城の石垣と瓦の考古学(山梨県立考古学博物館2021)より引用
共通点③ 武者隠しの設置
甲府城の城門には武者隠しと思われる空間が設けられています。武者隠しは兵を隠しておくスペースで、城門に攻めてくる敵に攻撃を加えることができる施設です。
武者隠しについては高知城で詳しく書いていますので、そちらをご覧ください。
高知城の武者隠しについてはこちら
【独自究明】高知城追手門にある謎の空間。豊臣大坂城から受け継がれた防衛の共通点
甲府城で特筆すべきはその数で、主要な門にはほぼ武者隠しが設置されています。これは1590年代の戦乱の時代に築城されたこともありますが、防衛を重視した城であったからだと考えられます。
・追手口

・大手口

・山ノ手口
山ノ手口については山手御門が復元されています。渡櫓門の内部は見学することができ、武者隠しは展望スペースとして入ることができます。





徳川包囲網の東の拠点
徳川家康の関東移封にともない、その周辺には金箔瓦の城(甲府城、沼田城、小諸城、上田城など)が整備されました。甲府城は東から来る徳川の侵攻を防ぐ重要拠点として整備されました。
甲府城の縄張りを見ると、東から侵攻する徳川軍から防衛するための形が見えてきます。

①東側に虎口がない
縄張り図を見ると、西北南には虎口があるが東側には虎口が設けられていません。これは東側から来る徳川軍を城内に侵入させないために意図して設計したものと個人的に考えています。

②東側の高石垣
甲府城の東側にある稲荷櫓から数寄屋曲輪の一帯は、約17mの高石垣で東日本有数の石垣です。これも徳川から防御するために意図的に築かれたものだと考えています。
ちなみに、大坂の陣の直前に藤堂高虎が豊臣方の抑えとして築いた伊賀上野城も大坂方面の西側に高さ約30mの高石垣を築いていますが、これも同様の考えだと思います。
・稲荷曲輪の高石垣

・数寄屋曲輪の高石垣

ここまで、甲府城と豊臣大坂城との共通点と、豊臣時代に甲府城が果たした役割(対徳川への防衛の拠点)であることを見てきました。
甲府城は豊臣系城郭の特徴である野面積みの石垣がよく残っており、また徳川による破壊や改変などもあまり行われておらず、そのような意味で大和郡山城と同様に貴重な城郭だと思います。
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