豊臣大坂城二ノ丸の普請は、令和8年(2026年)のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公である
豊臣秀長が普請総奉行をつとめ、毛利氏ら西国大名が動員して行われました。
地下水が多く、夜中のうちに水を汲みだし、排水作業と並行して石垣を積むという難工事でした。
二ノ丸の構造については、各虎口(大手口、京橋口、玉造口、青屋口)の位置や堀の形状など
現在の大坂城と大きな違いはないと考えられています。
また堀の規模についても、ルイス・フロイスが「堀の幅40畳(約78m)、石垣の高さ15~16畳(約30m)」と伝えており、この点も現在の大坂城とほぼ同様となります。
以降では、豊臣大坂城二ノ丸の主要な構造物について、①~⑦の順で説明していきます。

大坂城慶長年間之図(島内洋二「秀吉の大坂城ー知られざる堀と防御施設」に加筆)
①大手口
大手口は二ノ丸に入る正門で、大手門は生玉口大門と呼ばれていました。
本丸の虎口と同様に枡形だと思われますが、縄張り図や絵図では平門で描かれています。
また、複数の縄張り図では木橋で描かれていますが、以下の屏風図では土橋で描かれており、
こちらが正しい姿だと思われます。


②千貫櫓
大手口の南側に位置する櫓です。千貫櫓の名前は、織田信長が石山本願寺を攻めた時に横矢がかりがある櫓に悩まされており、銭千貫文出しても手に入れたいと言わせたことに由来します。
現在の大坂城(徳川大坂城)の千貫櫓は大手門の北側に位置していますが、豊臣大坂城では大手門の南側に位置しており、石山本願寺時代もこの位置にあったと思われます。
大坂冬の陣後の講和で徳川幕府が二ノ丸の堀を埋めますが、「駿府記」によると「二ノ丸の堀が思ったよりも広くて深いため、千貫櫓を始め、有楽家屋、西之丸建物を引崩して堀を埋めた」旨の記録があります。
③西ノ丸
西ノ丸は二ノ丸西部にあり、北部には大野修理(治長)の屋敷がありました。また豊臣秀長の屋敷もあったそうで、上洛した徳川家康を宿所として提供したそうです。
秀吉没後は正室の北政所が住んでいましたが、その後、徳川家康が西ノ丸に入り、4層の櫓を建てています。
なお、縄張り図と屏風図のどちらにも西ノ丸に櫓が三か所描かれており、重要な曲輪であったことがうかがえます。

余談ですが、大坂冬の陣図屏風に描かれた「西ノ丸の石垣」に謎があります。
それは「西ノ丸の石垣」が本丸や他の二ノ丸の石垣とは異なり、「犬走」または「腰巻土塁」
のように描かれているところです。

犬走とは
犬走とは石垣や土塁の外側に設けられた細長い通路状の平地のことで、下図の石垣上端と土塀の間にある空間のことを指します。屏風にある松の木が生えてる箇所が犬走のように見えます。

「城をきわめる 城と砦の基本犬走 -城郭 長谷川博美 基本記録」より引用
腰巻土塁とは
腰巻土塁とは土塁の下部を石垣にしたものです。写真は五稜郭の腰巻土塁ですが、石を節約できるメリットがあるそうです。屏風にある松の木が生えてる箇所が土塁のようにも見えます。
豊臣大坂城築城では石集めに苦労したようですので、もしかすると石巻土塁にして石を節約したのかもしれないですね。

④京橋口
京橋口は二ノ丸西北にあり、京街道に通じているため重要な出入口でした。
現在の大坂城(徳川大坂城)は土橋ですが、豊臣大坂城の縄張り図と屏風図は木橋で描かれており、こちらが実際の姿であったと思われます。


⑤青屋口
京橋口は二ノ丸東北にあります。青屋の名前は石山本願寺時代の寺内町に由来します(青屋とは染物屋のことだそうです)。
豊臣大坂城の青屋口は、算盤橋(橋桁に車輪が付いていて引き出したり引き込んだりできる橋)で普段は引き込んでありました。
豊臣秀長の家臣団が青屋口付近の普請を担当していたみたいですが、家臣の羽田正親と福智長通による天正14年の連署状に、青屋口に石が到着せずに石垣が作れない状況がつづられいたそうです。
なお、徳川大坂城では城の鬼門に当たるために門は常に閉められていました。

⑥サギ島
二ノ丸北側の水堀に鷺(サギ)が生息する中州があり、鷺(サギ)島と呼ばれていました。
この付近は湿地帯のため地盤が悪いために高い石垣を築くのは難しく、徳川大坂城再築時もこの付近の石垣構築を築城の名人である藤堂高虎が幕府に志願したそうです。

⑦玉造口


玉造口は二ノ丸南東にあります。普段は閉められいましたが、有事の際に本丸の水の手口から続く脱出ルートとして考えられていました。玉造口を出た東側は急な崖になっており、また南側は大名屋敷が作られている地区であったため、攻撃される可能性が少ないと想定されていたそうです。
どの書籍か記憶になく不正確で申し訳ございませんが、大坂夏の陣で徳川軍が玉造口を攻撃した際に、秀頼の精鋭部隊である七手組が玉造口を守っていたたためにかなり持ちこたえていたところを、別ルートから二ノ丸内に侵入した徳川軍に背後を襲われて陥落したことが書かれていた覚えがあります。
大坂の陣を書き記した合戦記のどれかだと思いますが、後日調べて書き直したいと思います。
ここまで、豊臣大坂城二ノ丸にある主要な建物を中心に見てきました。
二ノ丸については本丸と異なり、正確な縄張り図や絵図もなく、また発掘調査も行われていないため、未知の状況にあると言わざるを得ません。
本丸と同様に、二ノ丸についても現在の大坂城の地下にも石垣や瓦等が埋められていると思われますので、二ノ丸についても発掘調査がされることを願ってやみません。
次回は豊臣大坂城三ノ丸の詳細について見ていきます。
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