豊臣大坂城の三ノ丸について

豊臣大坂城

豊臣大坂城の三ノ丸の範囲については明確に定義されておらず、さまざまな説がありますが、
本ブログでは、二ノ丸馬出の先から東西南北の惣構までの範囲としています。

惣構ですが、北は淀川を自然の堀とした北惣構堀、東は猫間川を改修した東惣構堀、西は掘削した西惣構堀(現在の東横堀川)、南は自然谷を利用して掘削した空堀の南惣構堀となり、大名屋敷と町屋を取り囲んでいました。

以降では、豊臣大坂城三ノ丸を構成する①~④の惣構を中心に説明していきます。


①北惣構堀(淀川)

大坂城の北部は淀川を自然の堀としていました。北惣構堀には2つの橋(京橋、天満橋)が掛けられていました。

京橋

大坂城の北玄関口に当たる橋で、京につづく京街道の起点でした。
下図の右側にある橋が京橋で、橋を渡った中州(片原町)の左側にある橋が備前島です。
備前島は大坂冬の陣で徳川幕府が大砲100門を設置した中州で、大坂城に砲撃した1発が天守に命中し、大坂方が講和に傾く引き金となりました。

天満橋

秀吉は大坂を退去した本願寺を天満に誘致しており、天満には寺内町が形成されていました。その天満を結ぶ橋として天満橋が架けられました。
ルイス・フロイスの記録「日本史」に、橋が架けられたことにより「高額な船賃の負担を免れた貧しい人々の困難が除去された」と記されています。
大坂冬の陣図屏風では、豊臣方により橋板の一部が撤去されている様子が描かれています。

②西惣構堀

大坂城の西部は本丸から約1.5kmに西惣構堀(現在の東横堀川)を築きました。この堀は古代難波京の運河を掘りなおしたものだと言われています。
西惣構堀の堀幅は約20mで、7つの橋が架けられていました。

大坂冬の陣図屏風に描かれている西惣構のうち、まずは北側から5つの橋を見ていきます。

今橋

西惣構堀を開削してほどなく架けられたと言われています。江戸時代には橋長75.8m、幅5.5mの木橋として、町人が管理していたそうです。

高麗橋

西惣構堀を開削してほどなく架けられたと言われています。
豊臣大坂城の天守は高麗橋から眺めると真正面に見えると宮本雅明さんが指摘しており、高麗橋を渡る人々に対して天守がよく見えるように設計されていたそうです。
大坂冬の陣図屏風では豊臣方により橋板が外されている様子が描かれていますが、慶長19年(1614年)の12月7日の本町橋の夜襲に成功した豊臣方の塙団右衛門らにより焼かれたと言われています。

平野橋

西惣構堀を開削してほどなく架けられたと言われています。江戸時代には橋長が約62m、幅4.1mの木橋だったと伝えられています。
大坂冬の陣図屏風では豊臣方により橋板が外されている様子が描かれています。

大手橋(思案橋)

別名「思案橋」とも呼ばれていますが、これは、豊臣秀吉が増田長盛(五奉行の一人)に橋の名前を付けるように命じた時に、思案しても決められなかったことに由来すると言われています。
大坂城の大手口につながる橋として防衛上、重要と考えられていました。大坂冬の陣図屏風では豊臣方により橋板が外されいる様子が描かれています。

本町橋

西惣構堀を開削してほどなく架けられたと言われています。大坂冬の陣図屏風では、豊臣方の塙団右衛門隊が夜襲をかけて徳川方の蜂須賀至鎮隊に大打撃を与えた場面が描かれています。
江戸時代の本町橋は公儀橋として幕府により直接管理されていました。


つづいて、本町橋から南にある2つの橋についてです。
本町橋の先に折れている「まがり」と言われている箇所についても見ていきます。

農人橋

慶長5年(1600年)の記録では久太郎町橋と記録されています。大坂冬の陣図屏風では豊臣方により橋板が外されている様子が描かれています。
本町橋と同様に、江戸時代には公儀橋として幕府が管理していました。

久宝寺橋

橋名の由来は橋の西側に久宝寺という寺があったからという説があります。久宝寺橋は町橋で近隣の町が維持管理していました。江戸時代には橋長49.2m、幅3.9mの木橋でした。

まがり

本町橋の南に「まがり」という折れがありました。この折れについて、個人的には「横矢掛り」と思いますが(東惣構堀の森村口にも同様の折れがあるため)、西惣構堀の開削時に、西側にあった浄国寺の住僧に秀吉が帰依していたため、寺を避けて掘削したためと伝えられています。

まがりの付近は通過する流水が岸にぶつかって渦を巻く場所となり、水難事故が多く発生していました。現在は緩やかになっていますが、まがりの痕跡が見られます。

 

③南惣構堀(空堀)

大坂城の南部は本丸から約1.5kmに南惣構堀を築きました。
近年の発掘調査で、堀の幅は20m以上、深さは11m以上と大規模であったことがわかっています。
南惣構堀は空堀で石垣積みではなく素掘りの堀でした。
なお、真田信繁が築いた真田丸については別の機会にご紹介します。

南惣構堀の位置については、現在、積山洋さんの復元図が正確と言われています。
堀跡の想定ラインには現在も窪地や落ち込みが見られますが、ここでは発掘調査の結果と、
有名な痕跡についてご紹介します。

(a)発掘調査場所

平成5年(1993年)の「ひかりのくに本社」の建設において大規模な堀跡が検出されました。
発掘調査では深さ8mまでしか掘れなかったそうですが、ボーリング調査により11m以上あることが確認されました。堀の幅は20m以上であることがわかったようです。

中村博司「天下統一の城 大坂城」から引用

発掘調査場所である「ひかりのくに」の本社には、レリーフと発掘調査で見つかった瓦が展示されていたそうです(現在は見ることができないそうで残念です)。
「ひかりのくに」は大阪にある出版社で、私が小学生の頃に教科書で使っていた記憶があります。

「十三のいま昔を歩こう」より引用

惣構の塀や櫓は簡素なもので金箔ではなかったと思いますが、そのことが伝わってくるような瓦ですね。
大坂冬の陣の講和で、惣構の塀や櫓も堀に投げ入れられたと思いますが、発掘調査でその残骸が見つかっているのかが気になります。もしかして、戦いの跡に撤去されていることって考えられるのでしょうか。。。

「十三のいま昔を歩こう」より引用

(b)痕跡

空堀商店街から中に入った「田島北ふれあい広場」にクランクした堀の跡を見ることができます。
ここはNHKブラタモリで紹介された場所ですが、この辺りは江戸時代に瓦をつくる土を採る場所だったために凹んだ地形になっている可能性があり、単に堀跡と見なすには注意が必要そうです。

「十三のいま昔を歩こう」に加筆

④東惣構堀

大坂城の東部は猫間川を改修した東惣構堀がありました。大坂の陣で真田信繁が猫間川を使って兵糧を搬入したことが記されています。

平成4年(1992年)の地下鉄鶴見緑地線森ノ宮駅舎の調査によって、下図のF地点において、
堀の幅は13m、深さ1.3mの堀と両岸に花崗岩が積まれた石垣が見つかっています。
現在は埋めらている猫間川の川幅が約10mでしたので、この堀跡が東惣構堀の可能性があると思われますが、花崗岩の石垣と言うことで徳川大坂城の遺構の可能性もありそうです。
発掘調査の詳細を確認し、新たな知見が得られましたら更新したいと思います。

大阪城天守閣豊臣石垣コラム」より引用(豊臣石垣コラム | 大阪城天守閣)



ここまで、豊臣大坂城三ノ丸について、主に惣構を中心に見てきました。
三ノ丸の内側には大名屋敷や町屋がありましたが、まだはっきりとしない所があり、新たな知見が得られましたら更新したいと思います。

次回は豊臣大坂城馬出の詳細について見ていきます。



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