大坂の陣で勝利した徳川幕府は、元和6年(1620年)に大規模な大坂城の再築を命じ、およそ10年にわたって行われました。
豊臣大坂城の石垣は一切利用せず、新しく石材を運び込み、根石(石垣や建物の土台となる石)から新たに築き直すという新規の築城と言ってもいい内容でした。
これまでも触れてきましたが、徳川大坂城の本丸は、豊臣大坂城の石垣が残された状態で膨大な盛り土で埋めていることが判明しています。二ノ丸については不明ですが、本丸と同様に石垣を残して埋められていると私は考えています(ただ堀の拡張のために大部分の石垣は撤去されているとは思われますが)
ここでは、大坂の陣後に徳川秀忠が豊臣大坂城を再利用するのではなく埋めて再築した理由について考察するとともに、本丸と二ノ丸がどのように再築されたのかを検証したいと思います。
豊臣大坂城を再利用するのではなく埋めて再築した理由
豊臣大坂城を埋めた理由として以下の3点があると考えています。
- 豊臣の痕跡を消すため
- 大坂城の防衛力強化のため
- 落城した城を再利用しないという考えがあったため
1.豊臣の痕跡を消すため
大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした後に、徳川家康は京にあった豊国廟の徹底的に破壊することを命じています。秀吉の死後、毎年8月18日に豊国祭が盛大に催され、秀吉を慕う大名や公家、町衆が押し寄せたようで、家康は京から秀吉の痕跡を消す必要があると考えていたのだと思います。
豊国廟の本殿は、秀吉の正室である北政所の嘆願により免れ、今後一切修繕せず放置することになりましたが、それ以外の建物は徹底的に破壊されました。
大坂でも京以上に豊臣信仰は厚かったと思われますので、徳川秀忠が豊臣系の象徴であった大坂城の破壊とその上に新たに大坂城を築城し、町衆に大坂における豊臣支配のイメージを払拭させようとしたと思われます。
2.大坂城の防衛力強化のため
豊臣大坂城の防衛の要であった三ノ丸、馬出については、大坂冬の陣の講和で破却した後に再築されませんでした。
これは、大坂の陣で徳川幕府の最大の脅威であった豊臣氏を滅ぼし、幕府に抵抗する勢力が消えたため、不要と判断したのかもしれません。
(まさか250年後の鳥羽伏見の戦いで大坂城が舞台となることなど想像できないですよね)
三ノ丸、馬出の再築せず大坂城の防衛力を高めるには、本丸、二ノ丸を強化する必要があると考えたのだと思います。
徳川秀忠は藤堂高虎に対し「石垣の高さと堀の深さを旧城(豊臣大坂城)の2倍にするように命じた」と藤堂高虎の事績を記した「藤家忠勤録」に記載がある通り、本丸と二ノ丸だけで防衛するための全面的な再築が必要だったと考えられます。
※秀忠は堀の幅を広げることは命じられていないので、徳川大坂城の堀幅は豊臣大坂城の同程度
だった可能性があるかもしれません(おそらく広げられていると思いますが)。
3.落城した城を再利用しないという考えがあったため
当時の考え方に「落城した城を再利用しない」ことがあると何かしらの書物で読んだ記憶があります。
その理由については、以下の(1)から(5)が考えられます。
(1)構造的な損傷
激しい攻防戦により落城した場合、城門や櫓の建物だけでなく構造物の石垣や塀が破壊されていることが多く、再利用には大規模な修復が必要になります。
大坂城は火災で焼失しており、石垣も焼けて見た目が変色しており強度に問題があったのかもしれません。
二ノ丸以降については、冬の陣の講和で建物が取り壊されて堀に投げ入れられたり、二ノ丸石垣についても上端部分が崩されて堀に投げ込まれていたようですので、物理的に再利用できる状態ではなかったと考えられます。
(2)防衛上の弱点が明らかになっている
一度攻め落とされた城は防衛上の弱点や攻め方が敵に知られている可能性が高く、再び攻められやすいと考えられていました。
徳川幕府は大坂の陣で豊臣大坂城の分析と作戦は練って落城させていますが、同じ場所に縄張りもほぼ同じ大坂城を再築しています。秀忠は大坂城の再築にあたり、細かいところまで指示を出していたようなので、この点を考慮した弱点の補強は十分に行っていたと思われます(石垣の高さと堀の深さ2倍の命令もその1つだと思います)。
(3)縁起の悪さ・忌避
「一度敗れた」「主君の命運が尽きた」場所として縁起が悪いと見なされ、再利用することを避ける傾向がありました。
(4)権威の刷新
新しい支配者は旧勢力の城を破棄し、まったく新しい城を築くことで、自らの権力と時代の変化を内外に示しました。
これは、上で述べた「1.豊臣の痕跡を消すため」とも関連してくると思います。
(5)怨念・祟りの懸念
落城の際に多くの死者が出ており、また旧主やその一族が非業の死を遂げている場所として、その怨念が城に宿っていると考えられ、新しい住人や領主に災いをもたらすとの考え方がありました。
ここでは、徳川秀忠が豊臣大坂城の再利用ではなく、ほぼ新規に再築した理由について考察してきました。
ここからは、徳川大坂城の本丸と二ノ丸がどのように再築されたのかについて見ていきます。
徳川大坂城本丸の再築について
本丸については、中井家に伝わる「豊臣大坂城本丸図」の発見により徳川大坂城と豊臣大坂城の対比ができるようになり、徳川大坂城再築の内容がわかってきています。
徳川大坂城の面積は、豊臣大坂城に比べて10m~20mほど拡張されていることがわかります。

大阪城天守閣「豊臣石垣コラム」より引用(豊臣石垣コラム | 大阪城天守閣)
徳川大坂城の高さについては、山里丸以南に膨大な盛り土をすることで、豊臣大坂城の複雑な構造を改めて平坦な面を作り出しています。
特に豊臣大坂城の本丸に食い込む堀については徳川大坂城地表面から約20m下になるため、盛り土の工数は想像以上であったと思われます。
なお、盛り土の地層についてはボーリング調査の結果から、大坂城周辺の土が使われていることが確認されており、大坂城の二ノ丸堀の掘削で出た廃土が使われていたと想定されています。

三田村宗樹「秀吉の大阪 城と城下町」より引用
徳川大坂城二ノ丸の再築について
二ノ丸については、「豊臣大坂城本丸図」のような精緻な古記録がなく、また発掘調査も実施されていないため、構造等が全くわかっていない状況です。
そのため、徳川大坂城と豊臣大坂城の比較が行えず、徳川大坂城再築の状況も不明です。
豊臣大坂城二ノ丸の普請の記録として、岡本良一さんのご著書「大坂城」に、京橋口の西側の石垣普請を担当した土佐・山内家の現場の様子を国元に書き送った書状の中に「土中に残った豊臣時代の根石まで掘り起こし同じ位置に新たな石垣を築き直した」という記述があるそうです。
そうだとすると、豊臣大坂城二ノ丸の石垣を撤去した上で同じ場所に新たに石垣を築いたことになりますが、それが正しければ徳川大坂城の堀幅は豊臣大坂城と同じということになります。
しかしながら、私は以下の理由から正しくないと考えています。
・本丸の石垣は撤去されていない(二ノ丸だけ撤去する理由がない)
・豊臣大坂城の石垣を撤去する労力が膨大で投棄する場所がない(他の城への転用もなさそう)
いずれにしても、二ノ丸の発掘調査が行われない限り、真実は明らかにならないと思います。
二ノ丸について積極的に発掘調査を行うべきだと思います。そのために徳川大坂城の多少の破壊はやむを得ないと考えますが、いかがでしょうか。
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