「豊臣兄弟!」の主人公・秀長が築いた大和郡山城は「ミニ大坂城」だった!? ~その共通点を検証~

大和郡山城

徳川により地中深くに埋められ、その実態が謎に包まれた豊臣大坂城。
私たちはもう、その「真の姿」を拝むことはできないのでしょうか?
その鍵を握るのが、奈良県大和郡山市にある大和郡山城です。

令和8年(2026年)の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公として注目を集める豊臣秀長
兄・秀吉の天下取りを支えた名補佐役である彼は、実は大坂城二ノ丸の普請奉行として指揮した「築城の名手」でもありました。ほぼ同時期に彼が手掛けた大和郡山城には、大坂城の設計思想が色濃く反映されています。

「秀長が関わった城には、大坂城のDNAが受け継がれているのではないか――?」

本記事では、石垣の技法や縄張り、さらには施設の名前に至るまで、大和郡山城に刻まれた**「ミニ大坂城」としての痕跡**を、当ブログ独自の視点で徹底検証します。大河ドラマの予習として、秀長が描いた「理想の城」の姿を一緒に紐解いていきましょう。

大坂城と大和郡山城の「驚くべき6つの共通点」

大坂城と大和郡山城の共通点
1.普請奉行が豊臣秀長
2.石垣の技法:野面積みと転用石の多用
3.縄張りの構造(本丸、二ノ丸、惣構)
4.施設名称(桜御門、鉄御門、極楽橋)
5.共通の瓦(金箔瓦)の使用
6.一部堀の形状(おまけ:極私的な見解)

普請奉行が豊臣秀長

「豊臣大坂城の二ノ丸について」の投稿でも書きましたが、豊臣大坂城二ノ丸の普請奉行を豊臣秀長が務めていました
また、「大坂城二ノ丸普請」と「大和郡山城改修」が同時期に行われていることから、大坂城と大和郡山城の共通点は多いと考えています。

  大坂城二ノ丸普請:1586年~1588年
  大和郡山城改修:1585年~

豊臣大坂城二ノ丸についてはこちら
豊臣大坂城の二ノ丸について | 豊臣家の痕跡


大和郡山城の二ノ丸入口にある追手門(再建)は、桝形ですが渡櫓門(一の門)のみで高麗門(二の門)はありません。
大坂城本丸の桜御門、鉄御門と同じ形式ですが、大坂城二ノ丸入口も同様だったと思われます。

 

石垣の技法:野面積みと転用石の多用

大和郡山城の改修時期は、大坂城や伏見城、聚楽第の普請の時期と重なっており、石材集めに苦労していたと思われます。
大和郡山城には転用石が多用されており、「逆さ地蔵」や「伝・羅城門礎石」が有名です。他にも石仏や寺院の礎石、石碑や石灯篭、石臼などが使われています。
大坂城でも墓石や石仏が使われていた記録があり、どちらの城も石材集めの苦労がうかがえます。

「伝・羅城門礎石」と「逆さ地蔵」(郡山城の標2「郡山城の石垣」(大和郡山市・編集発行))より引用

 

縄張りの構造(本丸、二ノ丸、惣構)

大和郡山城は本丸、二ノ丸、惣構の構造です。本丸、二ノ丸の形状は、僊台武鑑にある大坂城と酷似しています。
惣構を含めた面積は、大和郡山城は東西約1.6km、南北1.5kmで、大坂城(東西約2km、南北2km)と同様です。
惣構は秀長の死後、増田長盛によって完成しますが、秀吉・秀長が目指した「城と町が一体となった都市」の構想が共通しています。
なお、大和郡山城の東惣構堀は、図の右上に記載がある秋篠川の流路を変えた上で作られた堀で、大坂城の東惣構堀が猫間川を改修して造られたことと状況が似ています。

大和郡山城の縄張り(郡山城の標1「郡山城の構え」(大和郡山市・編集発行))に加筆

大坂冬の陣配陣図(島内洋二「秀吉の大坂城ー知られざる堀と防御施設」より引用)

 

施設の名称(桜御門、鉄御門、極楽橋など)

大和郡山城には大坂城にある「桜御門」「鉄御門」「極楽橋」の名称がつけられていますが、これは大坂城を意識して付けられたのは間違いないと思います。
大和郡山城の「極楽橋」は大坂城同様に本丸に渡る橋ですが、「桜御門」「鉄御門」は二ノ丸の入口であり、大坂城本丸にあった御門の場所とは異なります。

令和3年(2021年)に再建された極楽橋です。長さ約22m、幅約5.5mあります。

 

共通の瓦(金箔瓦)の使用

大和郡山城の発掘調査において、天守台と追手向櫓付近で織豊期の瓦が大量に出土しています。
天守付近では「巴文の軒丸瓦」と「唐草文の軒平瓦」の金箔瓦が見つかっており、豊臣大坂城においても同様の瓦が発見されています。

大和郡山城の縄張り(郡山城の標3「郡山城を掘る」(大和郡山市・編集発行))より引用

筆者撮影(甲府城の石垣と瓦の考古学展にて)

 

一部堀の形状(おまけ:極私的な見解)

最後に、私が個人的に思っている「大和郡山城と豊臣大坂城の類似点」を挙げたいと思います。
それは、大和郡山城の二ノ丸北部にある右京堀の形状と、豊臣大坂城本丸の南西部にある空堀の形状についてです。
どちらも横矢掛りが効く複数のクランクを有していて独特の形状をしています。堀幅も広くはなく、「現在見ることができる大坂城の痕跡」だと勝手に妄想をしています。

ちなみに、右京堀は標高が高い西側は空堀のようになっています。

右京堀の中ほどは水が溜まっています。たまたま鷺がいるところが撮れました。
豊臣大坂城の二ノ丸堀にあったサギ島みたいですね(笑)



ここまで、大和郡山城と豊臣大坂城の共通点を見てきました。

豊臣系の城郭や建築物は徳川幕府により徹底的に破壊されました。大和郡山城も天守を二条城に移築されたり、櫓などが破却されたようですが、大坂城のように石垣の埋立や破壊、縄張りの大きな改変は免れており、豊臣期の城郭を知ることができる(おそらく唯一の)城です
なお、秀長が関わった城(大和郡山城、高取城、和歌山城)はなぜか破城(城割)とならず、改修して江戸時代も使われており、秀吉の城との扱いの違いに興味があります。

皆さんは、なぜ秀長の城だけ残されたと思いますか?


大河ドラマ「豊臣兄弟!」が始まったら大和郡山城にも大勢の方が訪れると思います。
二ノ丸の西側にある「郡山城情報館」には、豊臣秀長や大和郡山城のことはもちろん、郡山の歴史について知ることができますので、是非お立ち寄りください。
郡山城情報館(史跡郡山城跡内)|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)

この記事はここでもらった資料を基にしています。


豊臣大坂城の謎を広めるために、応援のクリックをお願いします👍

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


こちらのクリックもお願いします。

お城・史跡ランキング
お城・史跡ランキング
タイトルとURLをコピーしました