豊臣大坂城の本丸について

豊臣大坂城

大坂城本丸は東西北の三方を水堀で囲まれており、標高の高い南と南西は空堀になっています。
本丸は大きく「山里丸」「奥御殿地区」「表御殿地区」「米蔵地区」の4つの地区で構成されており、出入口は北部の「極楽御門口」、南西部の「桜御門口」、南東部の「水の手口」の三か所となっています。

秀吉の生活空間である奥御殿は三段の石垣で構成されており、上から「詰ノ丸(奥御殿)」、
「中ノ段帯曲輪」、「下ノ段帯曲輪」となっています。

以降では、豊臣大坂城本丸の主要な建物について、①~⑨の順で説明していきます。

豊臣大坂城本丸復元図 [歴史群像]名城シリーズ①大坂城(©宮上茂隆)に加筆

①天守

外観六層、地下2階の八階の望楼型の天守で高さは約39mです。外壁は黒漆塗下見板と黒漆喰(墨を混ぜたねずみ漆喰)で統一されていました。最上階は金箔の鶴と虎が描かれており、金箔瓦や金の装飾が用いられていました。

宣教師ルイス・フロイスの記録によると、文禄5年(1596年)の大地震で修復できないほどの被害があったとのことで、当初の天守から造り替えられた可能性がありそうです。

大坂城図屏風にある天守の一階には「五七の桐紋」と「菊紋」が描かれていますが、これは秀吉が晩年に盛大な花見をした醍醐寺にある唐門(右図)のような姿であったと思われます。

②極楽橋

本丸北部から二ノ丸をつなぐ「壁と屋根がついた廊下橋」で、屋根の上には望楼がのっています。極楽橋は大坂城の前身である石山本願寺からの名称であると言われています(極楽橋は伏見城、大和郡山城、金沢城にもあります)。

秀吉が建てた極楽橋の廊下橋は、醍醐寺座主三宝院義演による日記『義演准后日記』によると京都東山の豊国廟に移築された記述があり、その後、豊国極楽門を竹生島・宝厳寺に寄進したとの記述が豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』 に記されています。
豊国廟の『極楽門』から竹生島・宝厳寺への移築は、豊臣秀頼の命により片桐且元を普請奉行として行われたとのことです。

竹生島・宝厳寺にある唐門(国宝)です。豊臣大坂城の現存する唯一の遺構だと言われています。

③山里丸

本丸北部の天守の下に山里曲輪がありました。石山本願寺の庭園に茶室などを建てたもので、茶会が開かれていました。秀吉死後は天守台下に豊国明神の社がつくられました。
下の絵図には、山里丸の場所に茶室と思しき「わら葺の屋根」の建物と風流な入口が見られます。

④奥御殿

奥御殿は秀吉と北政所の住まいです。調理場の御台所や金銀を納める御土蔵などがありました。
奥御殿は男子禁制ですが、大友宗麟を案内した記録があります。

⑤詰ノ丸の櫓

天守から続く詰ノ丸石垣上にあります。詰ノ丸南東に位置し、西にある鉄御門を防御する櫓です。2025年4月にオープンした豊臣石垣館で展示する石垣はこの櫓台の石垣で高さは約6mあります。
右絵図にある左上がご紹介する櫓で、右下にある門が鉄御門を表していると思われます。

詰ノ丸の石垣(中村博司「天下統一の城 大坂城」から引用)

⑥鉄御門(くろがねごもん)

詰ノ丸南にある入り口で厳重に警備されていました。天正17年(1589年)の「定 御本丸鉄御門番事」には男子禁制であること、また午後5時から翌朝8時まで城中に一切出入りできないことが定められていました。

門の形状は左折れの桝形で、渡櫓門(一の門)のみで高麗門(二の門)はありません
豊臣系の城郭はこの形式が多く、現在では大和郡山城や熊本城で復元された御門を見ることができます。
なお、高麗門(二の門)を含む桝側は関ケ原の戦い以降に復旧した形式で、徳川大坂城の虎口はすべてこの形式です。

以下の画像は熊本城の西大手門です。鉄御門と同様に渡櫓門(一の門)のみで左折れの形態です。

⑦表御殿(千畳敷御殿)

奥御殿は秀吉が諸大名と対面する場所で、遠侍や対面所、秀吉が政務をとる御書院などがあったと言われています。後年、明国使者を迎えるにあたり、対面所を壊して千畳敷御殿を建てましたが、会見の直前に地震で倒壊したと言われています。

絵図にある千畳敷御殿は、いずれも豊臣秀頼が再建したと思われますが、屋根の大棟には下図のような金箔の「五七の桐紋」と「菊紋」の飾瓦が設えられています。

飾瓦とは屋根の棟に飾る瓦で、釘穴があり釘止めされていたと思われます。大坂城三ノ丸にあった大名屋敷でも金箔の「五七の桐紋」が発見されています。

中央と右の画像 文化遺産データベース「豊臣氏大坂城本丸跡出土資料」より引用

⑧水の手口と多聞櫓

水の手口は緊急時の脱出ルートで、大坂夏の陣の落城時に豊臣秀頼の妻千姫が通った場所です。
正式な通用門は桜御門であり、水の手口は物資などを搬入する勝手口のような出入口でした。
出入口に多聞櫓で防御する造りになっています。

多聞櫓とは細長い長屋形式の櫓で、松永久秀が多聞城で初めて導入してその名前がつきました。
右絵図の上部には長屋風の多聞櫓が描かれています。

下の画像は福岡城の南丸多聞櫓です。水の手口の表御殿側の石垣上にも、このような多聞櫓が続いてたいたと思われます。

⑨桜御門

桜御門は本丸の正門です。空堀に挟まれた枡形で鉄御門と同様に高麗門(二の門)はありません。
門の入口は左折れで出口は右折れとなっており、防御を高めていました。
桜御門の入口には番所があり、その右側には腰掛と北端に便所が2か所が設けられています。
腰掛とは入城を待つための施設です。

ここまで、豊臣大坂城本丸にある主要な建物について見てきました。
他にも月見櫓や菱櫓、朱三櫓など、ご紹介したい建物がありますが、お伝えしたい情報が見つかりましたら随時更新していきたいと考えています。

次回は豊臣大坂城二ノ丸の詳細について見ていきます。



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