石垣山城は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原合戦の際に築いた陣城です。
周囲9kmにわたり壮大な堀と土塁で囲んだ惣構の小田原城を力攻めにするのは難しいと判断した秀吉は、長期戦の構えで小田原城を眺望できる笠懸山(石垣山)に城を築くことを決めます。
小田原城の惣構についてはこちら
小田原城と豊臣大坂城の「意外な共通点」秀吉が北条から学んだ城造りの真髄
別名一夜城と呼ばれていますが、実際は延べ4万人を動員して約80日を掛けて築城されました。
小田原合戦後、城割により一部の石垣が破壊されましたが大部分は残っていたようで、幕末に新政府軍が江戸に進軍する際に、小田原藩はこの石垣山城を使って防衛することを検討したそうです。
その後、大正12年(1923年)の関東大震災でかなりの石垣が崩れたみたいですが、現在も「東国最初の総石垣の城」をしのぶことができる貴重な遺跡です。

石垣山城の縄張りについて
石垣山城の縄張りは名護屋城と酷似しており、石垣山城の案内板にも黒田官兵衛の関与が指摘されています。
名護屋城の普請は、石田正澄の書状から黒田長政(一説では黒田官兵衛)、小西行長、加藤清正と伝わりますが、上記3名は小田原合戦に参戦せず、黒田官兵衛のみが参戦していたためだと考えれます。
また、石垣山城と名護屋城の本丸については、同じく黒田官兵衛が設計した豊臣大坂城・本丸にある詰ノ丸(秀吉のプライベートな空間)と似ています。
各城の普請を時系列で表すと以下となります。
・大坂城 本丸(1583年~1585年)
・石垣山城(1590年)
・名護屋城(1591年~1592年)

石垣山城と名護屋城の比較
本丸の左隅に天守があり、その反対側に本丸大手がある点が共通しています。
また、天守左側の「西曲輪=二ノ丸」、「南曲輪=弾正丸」、「二ノ丸(馬屋曲輪)=三ノ丸」と主要な曲輪の構成がそっくりです。
石垣山城の井戸曲輪に相当する曲輪が名護屋城にはありませんが、名護屋城の三ノ丸には井戸がありました。

■石垣山城の縄張り

石垣山城の縄張り(現地案内板に加筆)
■名護屋城の縄張り

名護屋城の縄張り(佐賀県教育委員会)に加筆
石垣山城と大坂城の比較
石垣山城の本丸と大坂城の詰ノ丸の比較では、それぞれ石垣で覆われており、天守の位置と本丸大手の位置が共通しています。石垣山城の本丸にも大坂城と同様に本丸御殿があったと考えられます。
また、天守裏側にある「西曲輪=山里丸」、「二ノ丸(馬屋曲輪)=表御殿」も共通しています。


石垣山城の縄張り(現地案内板に加筆)
豊臣大坂城本丸復元図 [歴史群像]名城シリーズ①大坂城(©宮上茂隆)に加筆
中津城との共通点
ここまで、石垣山城と名護屋城、そして豊臣大坂城・本丸との共通点を見てきましたが、それらの縄張りには黒田官兵衛が関わっていました。
しかし面白いことに、官兵衛自身の居城である「中津城」を見ると、今回ご紹介した城の縄張りと全くと言っていいほど似ていないのです。
天守の位置や本丸大手の位置を含めて、秀吉の城との共通点は見られません。

黒田官兵衛が築いた中津城の天守は、現在の天守とは別の高瀬川沿いにあったようです。
私自身、まだ中津城を訪れたことがないため絵図での比較しかできませんが、豊臣系城郭との共通点がないか現地調査に行きたいと思います。
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