【名護屋城①】400年の誤解を解く。名護屋城「大手口・搦手口」逆転の証明

豊臣の陣城

名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点として築かれました。普請の時期は天正19年(1591年)から天正20年(1592年)と言われていますが、あまりにも短期間のため石垣普請等は小田原合戦と並行して実施されていたとの説もあります。

石田正澄の書状によると、黒田長政、加藤清正、小西行長に命じて築城されたことが記されており、縄張りは黒田官兵衛が行ったことが伝えられています。

なお、石垣山城の縄張りも黒田官兵衛と伝わっており、名護屋城と石垣山城の縄張りが酷似していることを石垣山城の記事でご紹介しました。こちらの記事も是非ご一読ください。

石垣山城についてはこちら
【石垣山城】名護屋城、豊臣大坂城との共通点。黒田官兵衛が描いた「豊臣の城」に共通するDNA

名護屋城の縄張り

城の面積は約17万㎡で大坂城に次ぐ規模でした。
城内の最高所には方形の本丸を配置し、本丸の西側に二ノ丸、弾正丸(浅野弾正少弼長政の屋敷があった)、遊撃丸(明国使節が滞在した)を、東側に三ノ丸と東出丸を置き、南側の馬場と呼ばれる帯曲輪で連結しています。本丸を通らずに各曲輪に行き来できる造りは石垣山城、豊臣大坂城と共通です。
城の北側は名護屋浦があり城下町がありましたが、こちらには上下の山里丸と台所丸があり、城で唯一の堀である鯱(しゃちほこ)池がありました。
茶会や宴会等が執り行われていたエリアです。ちなみに名護屋城では能や茶会が頻繁に行われていた記録が残っています。

名護屋城の縄張り(佐賀県教育委員会)に加筆

名護屋城の絵図では、狩野光信が描いたと言われる「肥前名護屋城図屏風」が有名です。

肥前名護屋城図屏風(佐賀県立名護屋城博物館)を引用加筆

この屏風は加部島から描かれていることが分かっているそうです(下図の赤矢印からの眺め)。
この屏風に描かれた建物や曲輪が縄張り図と一致しており、極めて精確な絵図であることがわかります。

加部島名護屋付近:Googleマップ,2026。

少し余談ですが、上の地図にある「海中魚処 萬坊(呼子萬坊)」ですが、海に浮かぶお店で海中で新鮮なイカ料理が頂けるお店です。
名護屋城を訪れる際はお立ち寄りください。お取り寄せできる「いかしゅうまい」は絶品です。

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名護屋城 縄張りの矛盾点

さて、ここからが本題です。皆さんは名護屋城の縄張り図を見て違和感を感じましたでしょうか?(私は気づきませんでした)
その矛盾点について、佐賀大学教授の宮武正登さんが「肥前名護屋城下町の空間構造とその特異性」の中で、驚くべき指摘をされています。

現在の大手口と搦手口は逆で「搦手口が大手口」「大手口が搦手口」である

この逆転現象が生じた原因について、宮武さんは「廃城後の口伝の中で生じた誤謬の結果」とされています。また、江戸時代の唐津街道が現在の大手口に直結していたことに関係するのではと推察されています。

現在の搦手口が大手門だったとする根拠として、以下の3点を挙げられています。

①虎口空間の規模
 搦手口は虎口の中で最大の規模で巨大な内桝形であるが大手口は平虎口で小規模である。

②本丸へのアクセス
 大手口から本丸へは「大手口⇒三ノ丸⇒本丸大手口」と簡易なルートであり、対して搦手口から本丸は「搦手口⇒弾正丸⇒二ノ丸⇒馬場⇒三ノ丸⇒本丸大手口」と複雑である。

搦手口から本丸大手のルート(佐賀県立名護屋城博物館所蔵)

大手口から本丸大手のルート(佐賀県立名護屋城博物館所蔵)

また、搦手口からのルートでは本丸方面に巨石(鏡石)が見えるように配置されており、この導線の重要性が指摘できる。


③搦手口方面の丘陵地に秀吉子飼いの諸大名が密集している
 片桐且元・貞隆、木村重隆、木下勝俊、加藤清正、福島正則、堀秀治の陣があり、その先には豊臣秀保の陣がある。大手付近に重臣の居住地区があるのは自然である(豊臣大坂城の大手門付近も重要な大名の屋敷がありました)

佐賀県立名護屋城博物館の陣跡に加筆

名護屋城の縄張りは黒田官兵衛が担当しました。
黒田官兵衛が築いた中津城、縄張りを助言した福岡城の縄張りから、名護屋城の搦手口と大手口の逆転現象の説明できるのでしょうか。

黒田官兵衛の縄張りにおける『大手から三ノ丸⇒二之丸⇒本丸』の法則
中津城縄張り(上・左):「大分県中津市なぽの城跡」引用加筆
福岡城縄張り(下・右):「お城散歩日本の城のガイドブック/ガイドマップ」引用加筆


中津城、福岡城ともに大手から三ノ丸に入り、二ノ丸、本丸のルートです。
・中津城:大手口⇒三ノ丸⇒二ノ丸⇒本丸
・福岡城:大手門⇒三ノ丸⇒二ノ丸⇒本丸

名護屋城ですが、現在は大手口から三ノ丸に入り本丸のルートです。
・名護屋城(現在):大手口⇒三ノ丸⇒本丸

搦手口と大手口を逆転させた場合は、
・名護屋城(逆転):大手口⇒弾正丸⇒二ノ丸⇒馬場⇒三ノ丸⇒本丸大手口
となりますが、二ノ丸と三ノ丸の順序が変となるため、
・名護屋城(逆転):大手口⇒弾正丸⇒三ノ丸⇒馬場⇒二ノ丸⇒本丸大手口
が正しい配置と言えそうです。

以上を踏まえて更新した縄張り図は以下となります。

名護屋城の縄張り(佐賀県教育委員会)に加筆

ちなみに、文禄2年(1593年)8月13日に名護屋城二ノ丸で四座(観世・金春・金剛・宝生)共演の能が催されていることが『大和田近江重清日記』に記されています。
この能の舞台が二ノ丸と三ノ丸のどちらにあるのか発掘調査で判明したら、この論争に終止符を打つことになりそうですね。
と、書きつつ改めて屏風を見ると、現三ノ丸に能舞台のような建物が描かれるではないですか!?

やはりここは三ノ丸ではなく二ノ丸なのでは?
妄想はこのあたりにして、今後の調査・研究結果を待ちたいと思います。


次回予告: 近年の発掘調査により、当初の名護屋城の縄張りが改変されていることが明らかになりました。改変が必要になった背景と改変内容をお伝えします。

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