【名護屋城②】名護屋城・弾正丸の普請が大手口を逆転させた仮説

豊臣の陣城

名護屋城の城外には130以上もの陣跡があります。錚錚たる大名ばかりですが、豊臣政権の五奉行である浅野長政(弾正少弼)の陣が見当たりません。
それは、浅野長政の陣は名護屋城の城内(弾正丸)にあるからです。では、なぜ五奉行筆頭である浅野長政は城外に陣を構えなかったのでしょうか。

佐賀県立名護屋城博物館の陣跡に加筆

前回の記事では、「大手口・搦手口」逆転の証明について書きました。名護屋城の普請は2期に渡って行われており、その中で当初大手口だった場所が変更になった可能性があることがわかりました。今回はその仮説について記したいと思います。

名護屋城大手口・搦手口の逆転についてはこちら
【名護屋城①】400年の誤解を解く。名護屋城「大手口・搦手口」逆転の証明

名護屋城の普請について

名護屋城の築城は古文書や発掘調査により2期に渡って行われたことが明らかになっています。

名護屋城の縄張り(佐賀県教育委員会)に加筆

 Ⅰ期(天正19年(1591年)~天正20年(1592年))

 初期の普請です。想定する外郭ラインは縄張り図の黒線ですが、このラインは石垣山城と酷似しています。Ⅰ期の虎口は現在の大手口と船手口の二か所と想定しています(石垣山城も2か所です)。
 黒田官兵衛が設計した城には必ず非常時の脱出ルートが設けられています。名護屋城の場合は大手口から攻められる想定で本丸北口から水手曲輪を通り船手口から脱出する想定だったと思われます。ちなみに、豊臣大坂城の場合は桜御門から攻められる想定で、山里曲輪から東下ノ段帯曲輪を通り水の手口から玉造口に向かう想定でした。

 Ⅱ期(天正20年(1592年)~)

 Ⅱ期で想定する外郭ラインは縄張り図の赤線です。
 天正20年4月13日の文禄の役が始まり、4月25日に秀吉が名護屋城に着陣しましたが、着陣以降も普請は続きました。

 ・天正20年?月 山里丸の普請開始(天正20年11月に秀吉が山里丸に居を移しています)
 ・天正20年7月 浅野長政が弾正丸の普請を開始
 ・天正20年?月 本丸と本丸大手口の拡張

 Ⅱ期の普請が行われた背景は不明ですが、秀吉が当初想定していたよりも長く名護屋城で指揮を執る必要が出てきたからかもしれません(朝鮮出兵の戦局の悪化?)。そのため、当初計画になかった山里丸の普請や、秀吉が執務する本丸御殿の増築(本丸の拡張)が必要になったのかもしれません。

・本丸の拡張について

名護屋城本丸の発掘調査で、現在の本丸にある南側と西側の石垣ラインよりも内側から拡張前の古石垣が発見されています(図の点線)。
図には本丸御殿の復元図も描かれていますが、この本丸御殿は豊臣大坂城の本丸御殿との共通性が指摘されています。
復元案の本丸御殿は拡張前の石垣ラインから十分スペースがありそうに思いますが、なぜ秀吉は本丸の拡張を指示したのでしょうか。

佐賀県立名護屋城博物館 「本丸御殿跡の発掘調査・遺構整備」より引用

 

大手口・搦手口逆転の仮説

ここからが本題です。前回の記事で取り上げた「大手口と搦手口の逆転」ですが、Ⅱ期の普請を境に意図的に行われたと言うのが私の仮説です。

①Ⅰ期では現在の大手口が大手で搦手口は船手口であった

②Ⅱ期で弾正丸を普請、現在の搦手口(巨大な枡形虎口)が完成。また本丸の拡張に伴い三ノ丸の南西隅に虎口と隅櫓を築く(隅櫓の石垣に鏡石を設置)

三ノ丸南西隅櫓の石垣にある鏡石です。

②により弾正丸の虎口が大手口に変更。本丸への正式なルートが「大手口⇒弾正丸⇒二ノ丸⇒馬場⇒三ノ丸南西隅虎口(鏡石を見ながら)⇒三ノ丸⇒本丸大手口」となる。


ここまで、Ⅱ期の弾正丸と本丸拡張、三ノ丸南西隅櫓の普請が大手口と搦手口を逆転させた仮説について記しました。
Ⅱ期が必要となった背景や名護屋城に関する新たな古文書等の発見があれば、この仮説が信憑性が明らかになると思います。

次回予告: Ⅱ期では山里丸の普請がありました。その際に本丸と山里丸を繋ぐ水手通路と水手口が築かれたと考えており、そちらの内容についてお伝えします。

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