小田原城と豊臣大坂城の「意外な共通点」秀吉が北条から学んだ城造りの真髄

豊臣大坂城

「難攻不落」と言われた北条氏の本拠地・小田原城。天正18年(1590年)、豊臣秀吉は21万の大軍で小田原城を包囲して北条氏を降伏させましたが、そのような小田原城に豊臣家の痕跡などあるのでしょうか?

先日、小田原城の総構にある「城下張出(しろしたはりだし)」の現地調査をしてきました。
そこで見えてきたのは、北条と豊臣を繋ぐ意外な共通点です。

なぜ秀吉は自らの本拠地に惣構を採用したのか? 最新の調査写真とともに、小田原で見た「城造りの真髄」を紐解きます。

小田原城の惣構について

小田原城の惣構は、天正18年(1590年)の小田原合戦の前に北条氏が築いた、小田原城の周囲にある総延長9kmに及ぶ堀と土塁で構成される防御施設です。
小田原合戦では豊臣軍21万は惣構を突破できず、その有効性を認識した秀吉は、京をはじめ、大坂城や伏見城に惣構を導入したと言われています。

【公式】小田原城 難攻不落の城(小田原市)「小田原城総構を歩こう」を引用

豊臣大坂城の惣構は大坂冬の陣の講和で徳川により徹底的に破壊されており、その痕跡はほぼ残されていませんが、小田原城の惣構は特に丘陵地で保存状態がよく、当時の土塁や堀の形状をうかがうことができます。
そのような状況の中で、豊臣大坂城の縄張り図にある「南惣構堀(空堀)」の形状と、小田原城の惣構にある一部の形状に共通点があると考えており、現地調査に行ってきました。

小田原城の惣構 城下張出(しろしたはりだし)

小田原城の北部の本丸から約1kmの場所に、空堀で囲まれた方形の張出があります。
この張出は東西約50m、南北45mで北側に張り出しており、敵兵に横矢掛という側面攻撃を掛けることができる施設になっています。

位置関係が分かりづらいですが、赤線が張出の右側面になります。
私も現地調査をするまでイメージがつかめませんでしたが、実際に見て位置関係や規模等を理解することができました。改めて現地調査の重要性を認識しました。

画像からは高低差が伝わりづらいですが、堀底までは現在でも7m近くあり、当時は10m以上あったと思われます(豊臣大坂城の南惣構の空堀は11m以上)。
堀幅は目視ですが約20m程度はあると思います。

堀底から張出側を眺めた画像です。結構な高さがあり、ハシゴがないと登ることは不可能です。

城下張出へのアクセスはこちら。

豊臣大坂城の南惣構堀(空堀)との共通点

さて、豊臣大坂城との共通点ですが、以前お伝えした南惣構堀の形状を最も正確に復元していると言われている「大阪公立大学の積山洋さんの復元図」に張出と思われる場所があります。
左側の張出(谷町口付近)については、以前、三ノ丸の記事で痕跡を含めてご紹介していますので、こちらを参照ください。

豊臣大坂城南惣構堀についてはこちら
豊臣大坂城の三ノ丸について

上図にある大坂城の張出付近には谷町口と八丁目口の門がありました。大坂冬の陣では、木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親の兵12000が守っており、空堀内に侵入した徳川方(井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎)の隊に銃撃を浴びせ大打撃を与えており、実戦において張出の横矢掛の効果が証明されていると思います。

大坂城南惣構にある張出の痕跡(「十三のいま昔を歩こう」に加筆


以上、小田原城と豊臣大坂城の共通点である「惣構の張出」について見てきました。
残念ながら、大坂城の惣構の痕跡は現在見ることはできませんが、ここ小田原で疑似体験をすることができます。
実際に現地で秀吉が参考にしたと言われる惣構堀の幅や深さを体感することで、秀吉が築いた城の惣構堀を少しはイメージできるようになったと思います。
次回は小田原合戦の前線で秀吉が築いた「石垣山城」をご紹介します。


豊臣大坂城の謎を広めるために、応援のクリックをお願いします👍

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村


こちらのクリックもお願いします。

お城・史跡ランキング
お城・史跡ランキング
タイトルとURLをコピーしました